2018/01/31
原発メーカー訴訟 最高裁へ
1 ノー・ニュークス権
放射能による被ばくの不安を抱えながら生きるなんてごめんだ、という思いは、単なる願望や、主義主張、ポリシー、あるいは社会の利益を無視した利己主義的なわがままなのか。
とんでもない。
少なくとも、3.11を経験した今、それはもはや憲法上保護される権利となったというべきだろう。これこそが、原発メーカー訴訟において、我々が主張する新しい人権「原子力の恐怖から免れて生きる権利=ノー・ニュークス権」である。具体的には、「通常人が合理的な理由に基づいて、放射能による生命・身体・財産の侵害が発生する恐れがあるという場合に、妨害の排除、または予防を請求しうる権利」であり、人格権を一歩進めて、その侵害に対する不安感そのものを法的に保護しようとするものである。
2 責任集中制度
原子力損害賠償法は、原発事故による責任をすべて電力会社に負わせ、それ以外のものを免責とする「責任集中制度」を採用している。これにより原発メーカーは、自身が提供した原子炉にどれだけ重大な欠陥があろうが、それにより発生した被害について一切責任を負わなくてもよいことになっている。このあまりにも不合理な仕組みが、安全性よりも経済性を優先させるモラルハザードを引き起こし、原発事故へとつながるのは誰の目にも明らかである。それにもかかわらず、この責任集中制度が原発事業における世界中を覆う原則となっているのは、このような理不尽なシステムの下でしか、原発体制を維持することができないことを示すものといえる。逆に言えば、電力会社だけをいくら攻撃しても、原発体制は何ら痛痒を感じないのであり、電力会社と共に、原発メーカーの責任を追及することこそが、根幹を揺るがすこととなるのである。
そして、そのための最大の武器となるのが、ノー・ニュークス権である。なぜなら、この世界の原発体制を頑なに保護する仕組みである責任集中制度によって脅かされるのは、財産権のような経済的権利というより、まさに「原子力の恐怖から免れて生きる権利」だからである。
3 最高裁での闘い
福島第一原発の原子炉製造者であるGE、東芝、日立を被告とした原発メーカー訴訟は、2014年1月30日と3月10日に、約4000名の原告によって東京地裁に提訴され、2016年7月13日に請求棄却判決、2017年12月8日に控訴棄却判決が下され、同12月21日に上告。本訴訟は、もとより責任集中制度の合憲性が最大の争点であることから、我々はここまでも最高裁での争いを想定した主張を積み重ねてきた。つまり、ここまでは、本当の闘いの準備段階であった。
柱となる争点は、ノー・ニュークス権のほか、詳細な法律論は他の機会に譲るが、憲法29条2項違反および債権者代位権(民法423条)における無資力要件の要否である。
控訴審判決は、ノー・ニュークス権について、「これを認める実定法はもとより判例・裁判例もなく、社会的にみても権利として確立しているということはできない」と述べた。ノー・ニュークス権そのものは、本訴訟で初めて主張されたものであることからすれば、判例・裁判例が存在しないのは当然であるが、2017年の福島地裁等における避難者訴訟で「平穏生活権」侵害による損害賠償請求が認容されたように、類似の人権はすでに多くの裁判で認められてきている。
あとは、より多くの国民が、原子力の恐怖から免れて生きたいと望むことは、もはや人権となったことを明確に認識して、「社会的にみても権利として確立」したといえる状況を作り出すことが極めて重要である。そのためにも、まずは原発問題に関心を持つ皆さんが、ノー・ニュークス権を当然にあるものとして日常に反映させることによって、我々と共闘していただくことを強く求める次第である。
(原発メーカー訴訟弁護団共同代表 弁護士 島 昭宏)